シャケトラの訃報で
重い気持ちになっていた4/17の晩。
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嫌なニュースというのは重なるもので
もう1頭、名馬の訃報が飛び込んできた。
“女傑”ヒシアマゾン死す
ヒシアマゾンと言えば、私が競馬を覚えた年に
「現役最強牝馬」として君臨していた思い出の馬である。
現役馬であるシャケトラとは当然「死」の意味合いは違うが
名馬の「死」であることには変わりがない。
ヒシアマゾンの冥福を心から祈り
「名馬列伝」として女傑と呼ばれた名牝を偲びたい。
(※馬齢は旧表記)
目次
ヒシアマゾン(牝) 1991年米国産 20戦10勝
出典:競馬2chまとめ
出典:netkeiba.com
ヒシアマゾンはアメリカ・ケンタッキー州の
テーラーメードファームの生産馬。
母のケイティーズはアイルランド1000ギニー(GⅠ)の勝ち馬。
「ヒシ」の冠名で有名な故・阿部雅一郎オーナーがアメリカで購入し、
テイラーメードファームに残してきた繁殖牝馬である。
この馬の半兄である
ヒシアリダー(父:Alyder/元種牡馬)の
馬体が現地でも非常に評判がよく
妹のヒシアマゾンも誕生前から期待されていたが
生まれたばかりの頃はひょろっとした体形で馬格も小さく
兄に比べて期待される存在ではなかったようだ。
その後関東の中野隆良厩舎に入厩したヒシアマゾン。
当時の助手は
「脚元が危なくて競走馬としてデビュー出来るか不安だった」
と語っている。
しかし調教を積むごとに動きもグングン良くなり
周囲の評価も変わってきたが、それでも後の
活躍を予言するものはいなかった。
3歳時:世代№1牝馬への道
1993年9月にダート戦で
後の主戦である中舘英二騎手を背に
デビュー勝ちを収めたヒシアマゾン。
2戦目のダート戦を2着とすると
3戦目は初芝の京王杯3歳Sで2着。
芝レースでの手ごたえを掴んだ陣営は
次走にGⅠ「阪神3歳牝馬S」を選択。
ここを5馬身差のぶっちぎりで圧勝。
レースレコードのおまけつきで早くも世代の牝馬の頂点に立つのだった。
4歳時:快進撃
当時は、外国産馬のレースへの出走制限が設けられていた。
米国産馬であるヒシアマゾンにはクラシックの出走権が無く
4歳の春シーズンはいわゆるクラシックの「裏路線」を歩むことになる。
年明け緒戦の京成杯(GⅢ芝2000m)は
同じく外国産馬の牡馬、ビコーペガサスの2着に敗れるが
その後、
クイーンC(GⅢ)→クリスタルカップ(GⅢ)⇒NZT4歳S(GⅡ)と
破竹の3連勝。
特に有名なのが、クリスタルCで見せた鬼脚である。
久しぶりのスプリント戦で追走に苦労したヒシアマゾン。
先頭を行く、快速外国産馬タイキウルフとは
直線で絶望的な差が開いていた…。
このクリスタルカップで見せた
残り100mでの4馬身差を差し
逆に1馬身差をつけた驚異の追い込み
は、競馬ファンに「伝説のレース」として知られており
あの井崎脩五郎センセーが、20世紀のベストレースの1つにあげている。
その後も秋のクイーンS(GⅢ)→ローズS(GⅡ)と
牝馬三冠路線最後のレース、エリザベス女王杯(当時)の
ステップレースも2連勝。
重賞5連勝で迎えた本番のエリザベス女王杯(GⅠ)では
オークス馬チョウカイキャロルとの火の出るような
デッドヒートをハナ差(3cm差)制して、見事に
重賞6連勝でGⅠ制覇という偉業を達成するのだった。
そして暮れのグランプリ有馬記念では
その年の牡馬三冠馬であり90年代最強馬との呼び声も高い
ナリタブライアン
当時の最強ステイヤー、ライスシャワー
快速馬ネーハイシーザーなど錚々たるメンバーが出揃う中
ナリタブライアンには敗れるものの
2着を死守し、歴戦の古馬たちを寄せ付けない強さを見せつけたのだった。
ヒシアマゾンの主戦:中舘英二騎手
現在は調教師として活躍している中舘英二(元)騎手。
ヒシアマゾンと出会いGⅠ制覇を成し遂げた
この1993年、94年あたりから
騎乗数・勝ち鞍ともに目に見えて上昇しており
まさしくヒシアマゾンとの出会いが
中舘英二騎手を関東の一流騎手に駆け上がるきっかけになったのは
間違いのないところだろう。
ヒシアマゾンに騎乗した当時は
「関東の中堅騎手」というポジションがピッタリで
ヒシアマゾンがデビューする前年の1992年に
「9年目で初重賞勝利」という遅咲きの騎手であった。
当時の中舘英二騎手と言えば
ツインターボとのコンビがあまりにも有名。
そのツインターボとのコンビの印象が強すぎて
- とにかく「逃げ」
- ローカル得意
と見られていた中舘英二騎手が
全くイメージの違う「追い込み馬」の
ヒシアマゾンの手綱を取っているということは
驚きを持って捉えられていた。
他馬との実力差の割りに、着差があまり開かないことから
中舘騎手のイメージにそぐわない「追い込み馬」の
ヒシアマゾンとのコンビに一抹の不安を感じていたファンがいたことも
これまた事実。
中舘英二騎手は後年、
エリザベス女王杯までの騎乗について
他の馬と一枚も二枚も力が違っていたことから
「負けてはいけない立場だったので、
後ろから行って、大外を通って、
着差は小さくても最後に勝てばいいという
レースをしていた」
出典:wikipedia
と語っている。
5歳:サンタアニタの悪夢~復活
当時は距離別の路線がそこまで整備されておらず
ヒシアマゾンにとっては国内では照準とするレースが
相変わらず限られている状況。
そこで調教師の中野隆良氏は
「牝馬同士のGⅠならば海外でも勝負になる」として
ヒシアマゾンを3月のアメリカ・サンタアニタパークで行われる
サンタアニタハンデキャップ(GⅠ・芝9ハロン))に
出走させることを決定したのだ。
ところがアメリカに渡り
態勢を整えたはずの最終追切で
まさかの脚部不安を発症。
結局レースには出走できぬまま
帰国の途につくのであった。
しかし幸い軽症で故障の回復も予想以上に早く
これならということで夏の名物レース
「高松宮杯」出走を決めたのであった。
ある意味、伝説の「1995高松宮杯」
現在の名称は「高松宮記念」
ご存じ、春の電撃スプリントGⅠとしてお馴染みであるが
当時は全く違った「顔」を持つレースだった。
1995年当時のレース名称は
「高松宮杯」
中京競馬場で行われる芝の2000mのGⅡレース。
当時の高松宮杯は
「春シーズンのGⅠでは少し足りなかった
中・長距離路線の渋い脇役たちが
春の総決算として出走するレース」
という位置づけをされており
中京競馬場、初夏の伝統の一戦として
非常に高い人気を誇っていた。
そんな名物レースに
「女傑」ヒシアマゾンが出走するもんだから
多数のファンが中京競馬場に大集結。
高松宮杯史上、2番目の大観衆が詰めかけたのである。
当然ヒシアマゾンは単勝1.5倍の
圧倒的な1番人気。
誰もが「”女傑”ヒシアマゾンの復活」を願っていた。
しかし、予想外の出来事が起こるのだ!
珍しく、出遅れることなくスタートしたヒシアマゾンだったが
久々も影響してかスタートから引っかかりっぱなし。
制御不能に陥ったまま、
なんと1コーナーから逃げの形に出てしまう。
これには超満員の中京競馬場から
歓声・驚き・悲鳴・怒りなど様々な感情が
入り乱れた大歓声が沸き起こる。
さすがのヒシアマゾンも道中スタミナをロスし
最終的には5着敗退という結果に終わってしまう。
ちなみに、この時の中舘英二騎手の騎乗が
「ヒシアマゾンとツインターボを間違えた?」
など、競馬雑誌で散々ネタにされていたのをよく覚えている。
しかし立て直した秋はオールカマー、京都大賞典を快勝し
勇躍、ジャパンカップに日本最強馬の一頭としてのぞむことになる。
そのジャパンカップでもいつもの通り後方に位置した
ヒシアマゾンだったが、道中のペースは一向に上がらず
ゴール前2ハロン、11秒2・11秒9という豪脚で
よく追い込んだものの、結果はドイツ代表馬ランドの2着。
また年末のグランプリ有馬記念では1番人気に推されるも
出遅れと、またもスローペースが響き5着に敗れてしまう。
6歳:そして引退へ
「現役最強馬」であることは
紛れもない事実なのだが、GⅠには
あと少しで届かないもどかしさ。
結局6歳も現役続行をしたものの
ぶっつけの安田記念で10着。
秋は古馬に解放されたエリザベス女王杯で
2着入線ながら斜行で7着降着。
結果的にラストランとなった有馬記念でも5着と
馬楽園が提唱する「牝馬、早枯れ説」に
当てはまってしまうような結末に終わったヒシアマゾン。
どうやらこの頃には脚部に不安を抱えており
引退の直接的な理由も屈腱炎であり、この不振も致し方なしといったところか。
その後は日本ではなくアメリカで繁殖生活を送ることとなる。
繁殖牝馬として
生涯に残した産駒は7頭。
初年度に同オーナーの持ち馬、ヒシマサル(GⅢ3勝)と交配し
大きな話題となったが生まれたヒシアンデスは未勝利。
その後も話題にはなるが、活躍する産駒を出すことは無く
繁殖牝馬引退後はのんびり余生を過ごしていたようだ。
競馬に「たら、れば」は禁物だが
日本で繁殖生活を送っていたら
もしサンデーサイレンス、ブライアンズタイム・トニービンなどの
輸入種牡馬御三家と交配してたらどんな産駒が誕生したのだろうとか
そのような夢を抱かせるような馬であった。
強かったヒシアマゾンの血が、今後も血統表の中で
残っていくことを強く望むー。
まとめ
日が沈みかけ薄暗くなった放牧地で
静かに息を引き取ったという報告を受けました。
ここ最近は食が細くなっていたものの
他の馬の例にはなく、ゆっくりながらも歩き回り
寝起きには問題なく見えていたということだったので
他の馬とは違うところを最期まで見せてくれていたのだと思います。
阿部雅英氏(ヒシアマゾンのオーナー阿部雅一郎氏のご子息)の談話
出典:スポニチ
個人的に好きだったのが
中野隆良厩舎との盟友、1歳年上の
ホクトベガとのコンビである。
たまに映像に映る2頭は、いかにも仲の良さそうな
先輩・後輩というような間柄で
「砂の女王」と「女傑」のまた違った一面を垣間見ることも出来た。
ヒシアマゾン、お疲れさま。
心からの冥福を祈るとともに、是非のんびり仲良しのホクトベガと
久しぶりの再会を果たしてほしいものだ。