次の日曜日は競馬の祭典、日本ダービー。
過去の歴代ダービー馬の思い出を
順番に振り返っていく
「思い出のダービー馬」
あの頃の思い出や時代背景と共に
プレイバックするこの企画。
第1回は、1990年(平成2年)の第57代ダービー馬
アイネスフウジンにスポットを当ててみよう。
20万人の大歓声が府中を一瞬にして
ライブハウスに変えた「ナカノコール」
を28年の歳月が経った今、振り返ってみよう。
(※馬齢表記は当時)
目次
アイネスフウジンの血統や戦歴
出典:ミドルエッジ
アイネスフウジンは
父:シーホーク
母:テスコパール
母父:テスコボーイ
という血統。
さすがに現代では完全に
化石状態な血統ではあるが
父シーホークは
“太陽の王子”モンテプリンスや
“芦毛のダービー馬”ウイナーズサークルを
輩出した80~90年代の名種牡馬である。
アイネスフウジンは1989年9月にデビューすると
2戦連続2着の後に10月の東京の未勝利戦で初勝利。
1勝馬ながら次戦はGⅠの朝日杯3歳S
(現:朝日杯フューチュリティステークス)
に果敢に挑戦。
ここでは5番人気という微妙な評価だったが
1000m通過が56秒9というハイペースの中を先行し、
1976年にマルゼンスキーが記録した1分34秒4の
レコードタイの時計で勝利。
一気に翌年のクラシックの主役に躍り出る。
明け4歳緒戦の共同通信杯(GⅢ)で順当に勝利するものの
弥生賞では不良馬場でメジロライアンに敗北(4着)
またクラシック第1弾の皐月賞では
レース中の不利もありハクタイセイの2着に敗れる。
結局、前年の3歳チャンピオンの
アイネスフウジンは思うような結果を残せないまま
1990年の日本ダービーを迎えることとなる。
騎手、中野栄治
出典:wikipedia
そしてアイネスフウジンといえば、この方
鞍上の中野栄治騎手である。
中野栄治騎手は騎手時代は通算370勝。
現在は美浦所属の現役の調教師として
活躍されている。
調教師としては2001年の高松宮記念を
トロットスターで制している。
1990年当時の中野栄治騎手は
「関東の”地味な”中堅騎手」という存在。
ビンゴガルーのセントライト記念や
スーパーグラサードの新潟大賞典など
重賞勝ちこそあるものの
競馬ファン以外にはほとんど知られた存在ではなかった。
加齢による体重管理の失敗と
以前に起こした交通事故の問題で
競馬サークルからの信用も落としており
騎乗する馬自体がほとんどない状態であった。
ちなみに交通事故の裏側には
こんな事情があったようだ。
「今から20年以上前の話になるかな。
小倉出張中に車がスリップしてしまい
軽い交通事故を起こしてしまったんだ。当然、警察官がやってきて
風船を膨らませられたんだけど、
アルコールの反応が出てしまったというわけ。シラフのつもりだったものの、
前日に飲んだ酒がまだ微妙に
呼気中に残っていたのかもしれない」
「それをマスコミに『中野栄治、飲酒運転』と
派手に書き立てられてしまってね。揚げ句の果てには助手席には女性が座っていたなど、
真実でないことまで記事になってしまったんだ。それを読んだカミさんが
『その女性は誰なの?』とカンカンに怒ってしまい、
美浦に強制送還されることに…」
出典:馬三郎
この時の中野栄治騎手は
半分、自暴自棄になっており
酒に逃げ、朝の調教にも全く顔を
出さない状態になっており
騎手としては開店休業状態に陥っていた。
しかし、そんな状態の中野栄治騎手に
アイネスフウジンの管理調教師である
加藤修甫氏が手を差し伸べた。
「中野、おまえダービー取ってみたいだろ。
ウチのに乗ってみないか?」
アイネスフウジンに跨った中野栄治騎手は
その素質を感じ取り、もう一度鈍った身体を
作り直すことを決意するのだった。
念願がかなって1989年の
朝日杯を制し、見事に3歳チャンプとなった
アイネスフウジン。
中野栄治騎手にとっても
悲願のGⅠ初勝利であった。
しかし、弥生賞と皐月賞の敗北で
周囲からの見る目は厳しいものになっていった。
特にGⅠ皐月賞で、スタート直後に
隣枠のホワイトストーンに接触し
得意の逃げの手に出ることが出来ず敗れたレースは
物議をかもした。
また、皐月賞でアイネスフウジンを破った
ハクタイセイの鞍上が武豊騎手。
前哨戦の弥生賞を勝った
メジロライアンの鞍上が横山典弘騎手。
また皐月賞路線以外からも
トライアルのNHK杯を勝った
ユートジョージの鞍上が岡潤一郎騎手(故人)
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで
勝ち鞍を量産する
東西の実力若手騎手に比べると
中野栄治騎手はどう考えても
地味(-_-)
「中野栄治では、日本ダービーは
荷が重いのではないか?」
このような意見が出始めた。
当然、それは中野栄治騎手本人も
分かっていらっしゃったようで…
ひょっとしたら降ろされるかも
と内心はビクビクしていたらしい。
しかし、加藤修甫調教師が
皐月賞後に中野栄治騎手にかけた言葉は
栄治、ダービー勝とう
の一言だった。
か、かっこいい~~(´;ω;`)
この瞬間から第57回の日本ダービーは
中野栄治騎手にとって
「勝ちたいレース」
から
「勝たなけれいけないレース」
に変わったのである。
日本ダービーの週の月曜日に
行われた「ダービーフェスティバル」という
イベントで中野栄治騎手は詰めかけたファンに
こんなコメントを残している。
『1番人気にしてください。
1番人気になって、そしてダービーを勝ちたいんです』
1990年日本ダービー
1990年といえばバブル期の最晩年。
しかし当時の日本といえば
国の発展が永遠に続くと信じていたし
何よりも国全体がどこか余裕があって浮かれていた。
スーパーファミコンに子供たちは熱狂し
「おどるポンポコリン」が爆発的に売れ
西武ライオンズがジャイアンツを4タテで下し
東西ドイツが統一され
私(管理人)は「刑事貴族」にハマっていた。
競馬界でも
オグリキャップというアイドルホースと
武豊騎手を中心とした若手ジョッキーの登場で
いわゆる競馬ブームが巻き起こりつつあった。
競馬場には若いファンたちも
足を運ぶようになっていた。
この年の日本ダービーには
19万6517人もの観客が詰めかけていた。
この入場者数は今でも世界レコードなっており
競馬場は、異様な雰囲気に包まれていた。
1番人気は
距離が伸びてこそと言われたメジロライアン。
2番人気に皐月賞馬ハクタイセイ。
アイネスフウジンは3番人気に甘んじていた。
しかし中野栄治騎手にもう迷いはなかったー
勝ちタイムの2分25秒3は
当時のダービーレコード。
ウイニングランに戻ってきた
アイネスフウジンと中野栄治騎手を
待っていたのは
20万人からの称賛・祝福を込めた
「ナカノコール」
この瞬間、競馬がギャンブルから
本物のスポーツになったという意見も多い。
90年代は平成不況や
大規模な天災、テロ事件など
「激動の10年」だったと言われている。
これからの激動の時代を予感させる
競馬界に巻き起こった新たな流れ。
20万人のシュプレヒコールと共に
1990年の第57回日本ダービーは
伝説になったのである。
アイネスフウジンと中野栄治騎手のその後
あまりにも見事なレースだったが
アイネスフウジンへの負担も非常に大きく
レース直後に脚部不安を発症し
そのまま休養に入ってしまう。
当然復帰に向けての調整が進められたが
状態がなかなか快方に向かわず
結局ダービー以降はレース出走が叶わず
そのまま引退となってしまう。
引退後は種牡馬として
快速馬、イサミサクラや
地方交流競走で大活躍した
ファストフレンドを輩出し
2004年に亡くなっている。
中野栄治騎手は1995年に騎手を引退し
調教師に転身。
現在も現役の調教師として
ターフに管理馬を送り込んでいる。
まとめ
第57回日本ダービーでの
アイネスフウジンの逃げは
威風堂々という言葉が
一番よくあてはまる。
カブラヤオーのような狂気性もなく
メジロパーマーのような意外性もなく
サイレンススズカのような圧倒的なスピードもないが
凛として堂々と2400mを逃げ切った
アイネスフウジンのレースっぷりは
30年近くたった今でも
語り継がれるような見事なレースだった。
そして、中野栄治騎手とのコンビは
色褪せず人々の記憶の中で輝き続けているのだ。