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第7位 2001年 香港ヴァ―ズ(ステイゴールド)
上記のスペシャルウィークが勝った天皇賞・秋で
2着に来たのがステイゴールド。
この時点でのステイゴールドは
31戦3勝という成績でありながら
重賞2着5回(うちGⅠ4回)
重賞3着5回(うちGⅠ2回)という
ナイスネイチャ、ロイスアンドロイスも霞むほどの
「イマイチくん」ぶりを盛大に発揮しており
90年代最強のシルバー・ブロンズコレクターの名を
欲しいままにしていた。
(天皇賞春・秋を2着⇒2着 翌年も5着⇒2着なんて馬いるか?)
当時の鞍上は熊沢重文騎手。
結局その後も勝つことは無く
2000年の4月まで重賞を勝つことが無かった。
しかし、陣営が「心を鬼にして」
武豊騎手に乗り替わった2000年5月の目黒記念。
乗り替わったそのレースで
いきなり(というか)念願の重賞初勝利。
場内は温かい拍手に包まれるとともに
「熊沢の立場は~(´;ω;`)!」
と叫ぶファンが大量発生した(←ほんとか?)
そしてこの勝利をきっかけに
ステイゴールドがその独特なキャラクターを発揮し
名馬への階段を登りつめていくのだ!
そのキャラというのは…
「日本ではイマイチなのに、海外に出るとやたらと強い」
というものである。
翌2001年の
ドバイシーマクラシック(国際GⅡ・メイダン芝2400m)で
前年のワールドシリーズチャンピオンであり
世界を股にかける名馬ファンタスティックライトを
ハナ差退け海外重賞初制覇!!
日本:人気はあるが、弱い相手でも勝てない
↓↓↓
海外:人気はないが、強い相手にきっちり勝つ
という
「今まではなんだったんだ!」と叫んでしまうくらいの
壮大なキャラチェンジに成功してしまうのだ!
ちなみにこの勝利は日本調教のサンデーサイレンス産駒として
初の国外重賞初勝利というおまけ付き。
日本で猛威をふるっていたサンデーサイレンスの血統の強さを
初めて海外の競馬に知らしめる契機となった歴史の転換点にもなったのだ。
結局それ以降も
日本:人気はあるが、弱い相手でも勝てない
という自分のキャラを忠実に(?)守り通したステイゴールド。
そして愛すべきネタ馬としてファンの多かった
ステイゴールドの引退レースとなったのが
2001年の香港ヴァーズである。
そう、「海外では強い相手でも、きっちり勝つ」のがステイゴールドなのだ!
最後の直線。
残り200mの時点で先頭を走る
ランフランコ・デットーリ騎乗のエクラールとの差は
絶望的な5馬身差。
誰もが
「届かないッ…!」
と感じたその瞬間
まるで背中に羽が生えたようだった
レース後の武豊騎手談話より
と鞍上が語った凄まじい追い込みで
ゴール前、エクラールをハナ差交わして見事に1着。
5年間、通算50戦という長きに渡る現役生活の引退レースで
念願のGⅠ勝利を海外で制覇するという
まさに絵にかいたような大団円。
「こんなドラマチックな幕切れはない」と評された
史上稀に見る劇的な幕切れを手土産に
種牡馬となったステイゴールドは
三冠馬の父として、また最強障害馬の父として
今もその血を後世に伝えている。
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第6位 1998年 毎日王冠(サイレンススズカ)
…この馬をランキングに入れるかどうか
正直、非常に迷った。
なぜか。
この馬の名前を呟くと、
私の肺が押しつぶされるような
悲しみの感情がどこからともなく湧き上がってくるのである。
その馬の名は
サイレンススズカ。
彼が天に召されてからもう21年の月日が経つ。
最近のファンはサイレンススズカという名前も
もう知らないのだろう。
次世代にその血を繋ぐことも叶わなかった
サイレンススズカという記憶に残る名馬。
彼の活躍は1998年の1年間に集約されていると言っても過言ではない。
その1998年の1年、厳密にいうと10ヶ月間の走りだけで
今でも私のように彼のことを鮮明に覚えている人間がいるというのは
彼がその1年で発した輝きがあまりにも眩しかったからである。
今のファンに彼のことを説明するときに
私は何というだろうか。
エイシンヒカリの上位互換だろうか…?
しかし、彼のレースには
そのぐらいのインパクトがあったのだ。
「世代最後の超大物」との高い評価を得ながら
気性の問題、完成度の問題で力を発揮できなかった3歳時(旧表記4歳)。
そこに現れた一人の騎手との出会いが
彼が伝説の名馬へと変貌を遂げるきっかけとなる。
その騎手は、武豊騎手。
「逃げて差す」
という唯一無二の戦法を人馬一体で作りあげ
めったに見ることの出来ない
重賞(金鯱賞・GⅡ)で大差勝ちを見せつけた
1998年の初夏のあの日。
路線は決まった。
中距離路線の完全制覇。
天皇賞・秋を制覇し夢は海外へ。
その全ての夢の前哨戦がこのレース。
1998年の毎日王冠である。
サイレンススズカがこのレースで負かした2頭。
エルコンドルパサーとグラスワンダーである。
エルコンドルパサーは次走で
3歳馬(旧表記4歳)で初めてジャパンカップを制し
凱旋門賞で日本調教馬として初めて連対(2着)を果たした
90年代屈指の名馬である。
またグラスワンダーも
1998有馬記念→1999宝塚記念→有馬記念と
グランプリ3連覇という偉業を達成しており
この2頭を軽くひねったという事実が
サイレンススズカの伝説性を高めている。
どこまでいっても逃げてやる!
フジテレビ青嶋アナの実況より
2 1/2馬身という着差は
永遠に詰まらない着差に感じた。
誰もこの馬の影は踏めない——-。
1998年11月1日。
全ての夢が一瞬で消えた「沈黙の日曜日」
しかし、仕方がない。
それも競馬だ。
「原因は分からないのではなく、ない」
武豊騎手のインタビューより
受け入れるしかないのだ。
翌年の1999年宝塚記念。
関西テレビの杉本清さんが発したこの言葉がファンの気持ち全てなのだ。
「私の夢は、サイレンススズカです。
夢、叶わぬとはいえ、もう一度この舞台で
ダービー馬(スペシャルウィーク)や
グランプリホース(グラスワンダー)と
走ってほしかった。」
サイレンススズカと武豊騎手のコンビは
今でも府中2000mのゴール板を目指して
競馬ファンの記憶の中で走り続けているー。
(その弐へ続く!!)